2023年3月16日 後生の一大事、命あらんかぎり油断あるまじき事 中之島聞法会
◆テーマ 「後生の一大事、命あらんかぎり油断あるまじき事」
名倉先生の講義を基に川人の感想を交えてまとめています。
元気で頭がまだはっきりしているうちに、ボヤボヤしてたらあかんのです。今の元気なうちに、やるべきことをやり抜け。人間は必ず死ぬ。そしてその時はいつ来るか分からない。だからこそ、いつ来ても悔いのないように心の準備をしておく。その時が来て狼狽える前に、日頃から覚悟と心の準備をしておく。これが仏教の学びだ。
皆、自分の命は永遠だと思い込んでいる。しかし永遠なんて命はないんです。
大震災の時、津波にさらわれて一瞬でなくなってしまった人々が沢山いた。
まさかこんなことが・・・。
命のはかなさとはそういうものなんですね。
いくら地位があってもお金を持っていても死ぬときはまったく関係ない。
しかも一瞬であっというまに逝ってしまう。
「無量寿」に目覚めるということは今生かされている、その不思議さに気づき、命の存在だけでありがたいと思う。
自分の命は、自分一人の命ではなく、ありとあらゆるご縁によって無量寿の命をいただいて生かされている。
蟻もサルもミミズもすべては何かの役に立ち、お互いが知らぬ間に支え合って共に生かされていることに気づかされる。
人間は何かの命を食べてその命を自分の体の命に置き換えて形を変えて生き続けている。
これだけをみても命はお互いに誰かの為になり、自分もその命をいただいたり渡したりしながらお互いが助け合っている。
そして肉体は生まれては消え、消えてはまた生まれ、命の形を変えながら生かされている。(輪廻転生ではなく命の循環)
生きているだけで頭が下がる、生かされていることだけでありがたいと感謝できるようになる。
これを一言で表現しているのが「南無阿弥陀仏」である。
◆世間虚仮・唯仏是真
世の中は当てにならない。娑婆世界だけを考えていたらあかん。娑婆世界とはこの肉体を持って生きている世界のこと。
人間は自分の肉体の有る期間での命の範囲でしか物事を見れない。
肉体を持っている時間だけで考えるから自己中心的になってしまう。
しかし命とは形がないので死ぬことはない。
命は形を変えながらも縁によって繋がっている。あるいはすべての命は皆繋がって、一つの大きな生命体としての命として生きているともいえる。
だから自分の命も自分一人のものではなく、他の生き物もすべてはつながっている。
或いは互いに影響を与え合って全体として生きていると考えている。
◆輪廻転生は仏教ではない
人間が生まれ変わるという概念は仏教にはない。それは単なる迷いである。死んだらそれまで。その人の魂が生まれ変わるというのは人間の煩悩が考え出した迷いに過ぎない。
◆死ぬことは誰しも嫌なこと。
みんな生きたいのです。だからこそ、その時が来たら悔いなく逝く。そのために日頃から仏法を学び、いちにち一日を漠然と過ごさずに使命を果たす日々を送ることが大切だ。
やるべき自分の使命に早く気づき、それを油断なく実践し続ける。
いつ、どうなっても、いつ死んでも悔がないと思える人生こそ、「後生を助ける」と親鸞聖人がおっしゃっている。
◆夕べに死すとも可なり
儒教の論語でいうと、「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」
朝に真理を悟ることが出来たならば、その日の夕方すなわちいつ死んだとしても心残りはないということ。
人生の唯一の目的とは「道を聞く」にある。
人生の目的を悟り、日々その目的のために実践していればいつ死んでも悔いはないと。
普段から学んでおけばこの心境に至れるということ。これが悟りの境地だ。
◆出世も、お金儲けも、現世では大事なことではあるが、今生かされていることを知り感謝できること。
こういう頭が下がるような目覚めをしている人は、目先に利益にとらわれることはない。
これこそが悟りの境地であり、心を安定させる妙薬である。