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2022年8月12日 仏教講座 人間の煩悩を取り去る二つの方法 その二

人間の煩悩を取り去る二つの方法

◇講師 僧侶名倉幹先生

◇中之島中央公会堂 中之島聞法会

【1】.静坐により煩悩を取り去る

◇一つ目は、静坐によって煩悩をリセットする ※別途、前講義に詳細を記す

 静坐はやろうと思えば誰でもできるので簡単であり、効果は大きいので実践の価値は大いに有る。

 煩悩は脳の中、あるいは心の問題なので、そう簡単に取り去ることは難しい。実は静坐という簡単な方法によって手軽にかつ誰でもいつで心の安定を得られる魔法の薬である。

【2】.聞法によって煩悩に対する免疫を育てる

◇聞法とは  三帰依文(さんきえもん)

三宝に帰依奉るべし。の三宝とは、「仏」「法」「僧」のこと。仏教の3つの宝。

「仏」は、覚りを開いたお釈迦さまの生き様から学ぶ。

「法」は、お釈迦さまの教えである仏法真理が書かれた「経典」から学ぶ。

「僧」は、ひとりの僧ではなく「仏」の教えを学び伝える人の集まで一緒に学ぶ。

要は仏教の真理を学び続ける事を聞法という。これが煩悩を対処する免疫となる。

◇六道輪廻

天 界 地位もお金も位もある。満たされているが地位や財産に執着が残っている世界。

人間界 生病老死、四苦八苦がある世界。

修羅界 独善的。怒りに我を忘れ戦いを繰り返す。欲望を抑えることが出来ない世界。

畜生界 弱肉強食が繰り返され、互いに殺傷しあう世界。

人を蹴落としてでも、自分だけ抜け出そうとする世界。

餓鬼界 嫉妬深さ、物惜しみ、欲望の塊の世界。

この世界から抜け出るため、さらに無理を重ねる世界。

地獄界 さまざまな苦しみを受ける世界。六つのうち最も苦しみの多い世界。

 

六道は人間が住む世界を分類したもの。自分は今どの位置に属するか。例え天界であったとしても苦しみの世界は変わらない。欲しいものは全て手に入れたが、避けられない苦しみがある。それが四苦八苦・生老病死。肉体を持つ人間は免れ得ない苦しみだ。

 

◇生老病死、四苦八苦

⑴生苦:生きる苦しみ

⑵老苦:老いる苦しみ

⑶病苦:病む苦しみ

⑷死苦:死ぬ苦しみ

 

人間の人生で避けることができない根源的な4つの苦しみ。仏教でいう苦しみとは「思い通りにならないこと」「自由でない境地にいること」だ。老化防止、病気の予防はどれだけ徹底しても老病死を避けることはできない。

では「生きる苦しみ」とはどういう意味か。仏教では一切皆苦と言うが、この世のすべては苦しみだという考えからスタートしている。

仏教では生きること自体が苦しみであると。もちろん楽しいこと、嬉しいこと、幸せなとき、それらが存在しないわけではないが、楽しいこと、嬉しいこと、幸せなことはいつまでも続くものではない。ポジティブな感情が大きければ大きいほど、ネガティブな感情つまり苦しみも大きくなる。

例えば、とても気の合う友達や恋人と好きなことをしていると、いつも楽しく最高の気持ちになれる。しかしその友達や恋人が突然この世から消えたらどうなるか。最高の気持ちから一転、最悪の気持ちになる。好きな気持ち、楽しい気持ちが強ければ強いほど、苦しみが大きくなるということ。「生きること」それ自体が苦しみだということである。

これ以外に4つの苦がある。

 

  • 愛別離苦(あいべつりく)

愛する人と離れることの苦しみ。人に限らず、ペットも、モノもあらゆる愛着の湧いた対象との別れは辛い。

 

  • 怨憎会苦(おんぞうえく)

憎い人、腹が立つ人と会うことの苦しみ。他人と関わり合いながら生きている。会社の上司や部下、嫌な先生やクラスメイト。嫌いな人と一緒に過ごさなければならないこと。

 

  • 求不得苦(ぐふとっく)

求めたものを手に入れることができない苦しみ。努力しても手に入れられなかったモノ、栄冠、地位、財産、伴侶などなど。

強く欲しいと求めたものを手に入れられなかった時、強い気持ちが大きければ大きいほどその苦しみは大きい。

 

  • 五蘊盛苦(ごうんじょうく)

人間は肉体という物質を持って生きている。ということは、肉体は病気にもなるし老化もする。そしていつかは消えていく。心も体もこの世の一切のものはすべてが苦しみだということ。

五蘊(ごうん)とは心と体のことで、心と体はすべていつかは消えゆくもの。全ては変化して生まれては消え、また生まれては消える。これを諸行無常という。

 性欲も盛んであればあるほど、出来なくなると苦しむ。地位も名誉も財産も、立派にはなって成功したとしても、地位や財産を守ろうとすると、心が安らぐことができない。天界のような地位を得ても上になればなるほど苦しみも増えているのだ。

 

 それでは一体どうすれば苦しまなくて済むのか。お釈迦様は言う、三宝に帰依し奉るべしと。三宝とは、「仏」の悟りを開いたお釈迦さまから生き様を学ぶこと。

「法」お釈迦さまの教えである仏法の真理が書かれた「経典」から学ぶこと。

「僧」ひとりの僧という狭い範囲ではなく「仏」の教えを学び伝える人の集まりの中で一緒に学ぶこと。

要は仏教の真理を学び続ける事、すなわち聞法を続けることでしか煩悩を取り去ることはできないと。

学び続けるということは心の中に煩悩に対する免疫を作る事と同じで、辛いこと不安なことに出会ったとしても、心は平安でいられるという抗体を作ってくれるのが聞法だ。

人生の真理を会得した僧侶から学び続けることによってしか自らが悟りを得る方法はない。

 

◇因縁生起

 あらゆるものはありとあらゆるご縁によって成り立っている。無量、無数のご縁によって成り立っているということ。宇宙始まって以来すべての縁と縁がつながって今の自分がある。いや今の自分が生かされていることに気づく。これが悟りの第一歩である。

 

◇生かされている

 自分が今こうやって生きていることがいかに不思議なことか。宇宙始まって以来のご縁が、連綿と続いてきたご縁の連鎖によって今生かされている。この域に入ってくると、自分の命は自分で作ったものではないし、また両親が作ったというレベルでもない。ありとあらゆるご縁と命の連鎖の中で、今の自分がここにいる。

このことが理解できるようになると自然と頭を垂れたくなる。神さまか仏さまかわからないが、大自然の偉大さを拝みたくなる。生きているそのままの自分、命の元を拝みたくなる。不思議なこの命に目覚めて生きる喜びを感じる。四苦八苦も必然として受け入れ、「今、ここに生きていることがすべてだ」と。

将来どうなるか、死んだらどうなるか、なんて考えることもなくなるし、そんなことどうでもよくなる。今、生かされていることを喜び、今を愉しみ、今を生きる。

 

「天命に安んじて、人事を尽くす」

 

仏教はあきらめ主義ではなくて、自分の考えで今を積極的に変えていく。その結果として、どういうことになろうとも、それはそれとして必然と受け入れる。

 

いつ死んでも悔いはない。そういう心を持ちながら、一方では何が起きても全て「OK」として受け入れる。今、こうしてあることがありがたいと感謝して生きる。

 

 

◇煩悩即菩提 ※長南瑞生氏の文章が分かりやすいので参照

 煩悩は自分の心を「煩」わせ「悩」ませるもの。有名なものは「三毒」といわれる、

欲や怒りや愚痴。私たちは、お金や財産、地位、名誉を求めて争い、恋人を求めて欲の心で苦しむ。自分の思い通りにならないことがあればイライラし、腹を立てれば相手を攻撃する。その怒りで自分の心も苦しんでいる。

気に入らない人がいれば、嫉妬やねたみ、恨み呪い愚痴の心で、陰口や意地悪をし、日々、嫌いな人を呪い続けて、また自らも苦しむ。

このように、自らを苦しめている心が煩悩だ。私たちを苦しめているものが、お金や財産、地位、名誉や周りの人々ではなく、自分の心の中にあると知れば煩悩が理解できる。

 

では煩悩をなくそうということで、出家したり、戒律を守ったり、煩悩をなくす修行をしてきたが、煩悩をなくそうとすればするほど、煩悩が逆に噴き上がってくることに気づく。

 

例えば、美味しい物を好きなだけ食べているときは食欲を感じないが、ダイエットや食事制限をしてみると、お腹がすいて、食べたいという衝動が常にわき上がり、食欲の強さを実感する。そしてついつい手が出てダイエットは終わる。(笑) 

ようは煩悩を断ちきることはできないということ。

 

煩悩即菩提とは、煩悩を認め受け入れたうえで、それをそのまま転ずるということ。例えば、西洋と東洋の考え方の違いでいえば、西洋では、悪いものをなくそうとするのに対して、東洋では、悪いものをいいものに転じようとするようなもの。西洋の医学では、ガンのような悪いところがあれば、手術で切り取ってなくそうとする。

それに対して、東洋の医学では、切り取らずに、漢方薬を飲ませたり針を打ったりして、そのまま善く転じようとする。

 

西洋のチェスでは、相手の駒をとったらそれで終わりですが、東洋の将棋では、相手の駒をとったら味方として復活させてまた戦う。ちょうどそのように、煩悩を、そのまま菩提に転じてしまうのが、煩悩即菩提。

これが仏教で教えられている究極の幸せだと考えている。

 

 

男女関係の例え、昔、太郎さんは、山を一つ越えて何キロも離れた隣村の学校に通っていた。雨がふると大変。遠いしぬれるし坂道だし、学校へ行く気が失せてしまう。

ところが、ある日、同じ村に美少女が引っ越してきて、女の子一人で山道を行くのは危ないので、二人で一緒に登下校することになった。それから学校に行くのが楽しみになった。特に、雨がふる日は最高。カサを持ってこなければ、彼女のカサに入れてもらえる。

山も道も少しも変わらないのに、今まで苦しみだった山道は、遠ければ遠いほど嬉しく、雨は降れば降るほど嬉しくなったのです。このように、煩悩は少しも変わらないのに、そのまま喜びに転じてしまうのが煩悩即菩提という意味です。

非常にわかりやすい例えだ。煩悩も見方や立場が変わると良くも悪くもなるということ。煩悩に一喜一憂するのではなく、その性質を生かせばいい。欲望の大きさは自分勝手に使えばエゴになるが、その大きな欲望を大きなエネルギーに変えれば、方向さえ間違わなければ大きな事が成就する。

 

◇お盆の意味とは

 一般的には先祖の精霊を迎えておもてなしをして、またあの世へと送り出すという日が「お盆」と思われているがそれは間違いである。

 亡くなった人の魂や精霊を迎えたり送ったりするという考え方は、先祖を偲ぶという意味においては大切なことではあるが、元々人間が考えたことであって、仏教本来の教えとは違う。死んだ後にも霊魂や魂というものがあると信じている人間が考えたしきたりであって、お釈迦様がおっしゃったのは悟りを開いた僧侶(立派な指導者)を招き、仏教の真理を教えを請うことが大切だと説かれている。

 人間は誰しもが四苦八苦という苦しみを持って生きている。煩悩を取り払うためには仏教の真理を学ぶこと以外にない。定期的にかつ継続的に学び続けることで、煩悩に対する免疫が少しずつできてくるようなもの、煩悩に対応できる抗体ができていくというもの。だから、仏教を学び続ける事だと教えている。

以上

 

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