2021年11月04日 聞法会 第81回 僧侶名倉幹先生 人間の森大学仏教講座 「源信和尚」 78分
源信広開一代教 偏帰安養勧一切 専雑執心判浅深 報化二土正弁立 極重悪人唯称仏 我亦在彼摂取中 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我 読み方: 源信、広く一代の教を開きて、ひとえに安養に帰して、一切を勧む。 専雑の執心、浅深を判じて、報化二土、正しく弁立せり。 極重の悪人は、ただ仏を称すべし。我また、かの摂取の中にあれども、 煩悩、眼を障えて見たてまつらずといえども、 大悲倦(ものう)きことなく、常に我を照らしたまう、といえり。 正信偈講話(蜂屋賢喜代著)下巻 第六章「源信和尚」ご参照 「極重悪人唯称佛」 自分が極悪人であるということに気づけよ。自分はあさましい人間であることに気づけよ。親鸞聖人は自己を見つめる目が大変厳しい方であった。人は知らず知らずの間に人を傷つけてしまう。言葉によって人を殺してしまうぐらい追い込むこともある。 自分にとって都合の良いときは見て見てと主張し、都合が悪くなると自分の浅ましい心をひた隠して良い子ぶる。殺人は物理的に肉体に危害を与えて殺す。さすがに今の時代はそれはないにしても、その分言葉や態度や卑劣な手段を使って、相手を蔑み誹謗中傷することを繰り返してしまう。ネットやSNSなどでの誹謗中傷は見ていて悲しくなるが、実は自分自身も知らぬ間に、気づかぬままに同じようなことはしていないだろうか。実は、自分が自分に対して悪い奴だと思えるぐらいでちょうどいい。そして自分の浅ましさに気づく必要がある。 人間は、人に良かれと思って言ったことやった行動によって、その相手が喜んでくれることが半分はあるが、実は残りの半分ぐらいは良かれと思って言った言葉で、逆に相手を傷つけていることも結構ある。だから言葉にはよくよく注意を払って話さなければならない。 ◆94歳のツネさんに聞いてみた。「死ぬことは怖くないですか・・・」。 まあ、こんなぶしつけなことを聞く人はいないだろう。よっぽど面の皮の暑い図太い人間である私だからできることかもしれない。しかし多くの人の心の底には少し興味のある質問かもしれない。 それに対して自然体のツネさんは堂々と答えてくれた。「死ぬことにはまったく恐怖は感じていないです。私は今こうして生きていられることに心から幸せを感じているのです」。全ては南無阿弥陀仏「他力本願」ということを悟っているかのようでしたね。「仏のご加護のままに生き、有るがままになるようになる」。口数の少ないツネさん。謙虚でかわいいおばあちゃんの、その自然体の笑顔にほっこりし回答であった。言葉も優しいし、微笑ましい表情も風体も自然体。他力で生きている94歳のツネさん。聞法会でお会いできるだけでこちらもみんなも和む。素晴らしい他力本願の実践者に出会えた。 ぜひ100歳、いや120歳ぐらいまでこのまま長生きして生きる知恵を示唆してほしい。