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2021年6月3日 仏教講座 僧侶名倉幹先生 正信偈「他を利することで自分も利す」60分

 

◇「自利利他円満」

他人を利することで自分も利す。これが円満の秘訣だ。

 

◇「自分の命は自分で作ったものではない。自分の命も体もすべてはいただいたもの」

私は私のもの。私の命は、私の命だと思っているでしょう。しかし実は、その命も体もすべては自分で作ったものではないのです。すべてはいただいたものなんですね。

そのことに気づくと、自然と「お蔭さまで・・・」という感謝の気持ちが湧いてくる。これが「他力」の“本質”です。

 

◇苦言は自分の糧となる。

誰かから苦言を言われたとする。すぐにカッとなりがちですが、実はその「苦言」こそが自分にとっての妙薬なわけです。気づいていない現実の自分に気づかせてくれている。苦言を妙薬と理解できると、深い気付きになる。苦言を呈してくれた人に「お蔭様」と感謝したくなる。

 

◇人間は皆善人であり、悪人でもある。

人間には必ず良いところと、そうでない逆の醜い悪の部分が半分は有ります。誰でも肉体を持った人間は我欲も煩悩も持っていることが当たり前。しかし、同時に立派な人間になりたい。信頼される、或いは尊敬される人間でありたいと願う気持ちも持ち合わせています。

正義感の強い人は、自分の欲望や煩悩を抑えたい。そして立派に人間になりたいとの高い理想を求めている。そして欲望や煩悩に囚われない「悟り」の世界に憧れ、そのために学び努力を重ねている。

 しかし、現実はどんなに努力しても人間から欲望や煩悩を消すことができない事に気づく。これを繰り返しを続けているのが人間ではないか。

 

これらの過程を通じて、自分を追い込んだり悩んだり、心の中で誠実な自分と欲望と煩悩に流される自分とが葛藤している。この努力を続けながら成長し、欲望や煩悩を目立たなくする努力を重ねている。その葛藤の先に掴むものが念仏ではないだろうか。

日常の仕事の葛藤、生活の中での諸問題、人間関係、経済的問題。多くの問題を抱えながら生きている。少しの時間を見つけて聞法(仏教の教えを聞く)を続け、「念仏一つ」という悟りの境地に近づいていく。

 

「念仏一つ」とは阿弥陀の本願であり、阿弥陀の力であります。「南無阿弥陀仏」と、一念に唱え続ける。ただそれだけでいいということに気づき始めるのです。これが人間界、すなわち生きている間に悟る境地に至るものではないかと思います。

 

 親鸞聖人の教えの中で有名な「悪人正機」。

「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや。しかるを世の人つねにいわく、悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや」

 

善人でさえ救われるのだから、悪人はなおさら救われる。ところが、世間の人は常に 「悪人でさえ救われるのだから、善人はなおさら救われる」 と理解している。

しかし、これはそうではない。人間は善人と悪人という二種類が存在するのではなく、全員が善人でもあり悪人でもあるということです。人間はどちらか一方ではなく、どちらの要素も持っているのです。欲深い私、悪人の私という一面も必ず持っているし、善人の一面も持っているのです。

ですから善人も悪人も両方が救われるという意味ではなく、人間みんなが善人の一面と悪人の一面の両面を持っているのです。

ですから、すべての人々は、念仏一つで救われる。「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで、この世に生きながら涅槃を得ることができるということではないかと思います。

解釈 川人正臣

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